こんにちは。学習塾ESTEM、スタッフの渡辺です。令和という新元号が発表されて一週間ちょっと経ち、4/9に後を追うようにして新しい紙幣に変わると麻生太郎財務相から発表されましたね。
2024年度上期をめどに1万円札と5千円札、千円札の紙幣を刷新される予定だそうで、紙幣を一新するのは2004年以来、約20年ぶりとなります。理由について、偽造防止の観点からこれまでも約20年ごとに変えてきたからとのこと。また、お札にも寿命というものがあり、一万円札は3~5年、五千円札と千円札では1~2年程度で寿命が来てしまうみたいです。紙幣も「紙」ですからね。寿命を迎えた紙幣は世の中の流通を通じて日本銀行に戻ってきた際に順次新しいものと交換されていくみたいです。お札には製造年が記載されていませんが、それはいずれ交換されてしまうから。今回、新元号発表と続いたことについては「たまたま重なった」だけとのことですね。
新しいお札の顔は1万円札が渋沢栄一、5千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎となり、これら3名の偉人は明治維新以降に活躍された方々です。
今回は塾の内容とは離れてしまいますが、この3名が一体何をしてきたのかを少し紐解いていきたいと思います。
※ここでは細かな経歴等省略し、大きな功績についてのみ触れていきます。
渋沢栄一の偉業の数はとても多く、第一国立銀行や東京証券取引所の設立や経営などにも携わった偉大な人物です。
大政奉還に伴いヨーロッパで勉強した株式会社制度を日本でも実践しようと試みますが、大蔵省へと入省。国立銀行条例などの成立に寄与します。第一国立銀行の総監に就任しました。
東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現:太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど
第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任、七十七銀行など多くの地方銀行設立を指導しました。
多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされています。
さらに東京株式取引所や東京手形交換所などの設立にも関わっています。
ちなみに、”bank”を”銀行”と訳したのも、渋沢栄一だそうです。
日本主義経済の発展に貢献した渋沢栄一は
「日本資本主義の父」と呼ばれ称されています。
1871年、6歳の梅子は岩倉使節団の留学生としてアメリカへ行きます。5人いる女子留学生の中で最年少でした。おそらく社会の教科書などで一度は目にしたことがあるのではないかと思います。アメリカ到着後は、日本弁務官(現在の日本大使館のような役割)書記の家に預けられます。
現地の学校に通い、初等・中等教育を卒業したあとは、私立の女学校へ進学し、ラテン語やフランス語などの語学を学びました。その他にも、自然科学や心理学、そして芸術まで幅広く学びました。
明治政府から帰国命令が出て、1882年に帰国しました。
様々な教養を身に付けた梅子は、女性のための学校を創ることが目標でした。
しかし、いざ目を向けてみると、女性が就ける仕事が少ないうえに、結婚か仕事かを迫られるような日本の社会にうんざりしたそうです。
それだけでなく、梅子は10年という留学生活を送り日本語を話せなくなっていました。
そんな時、外務大臣の井上馨が主催するパーティーで、かつて岩倉使節団で一緒だった伊藤博文と再会し、教育者としての1歩を踏み出すことになりました。
そして、私塾・桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いていた下田歌子を紹介されます。
まずは博文の通訳として伊藤家に住み込みで働き、また桃夭女塾でも英語教師として働きながら、歌子から日本語を教えてもらう生活をつづけました。
伊藤博文の推薦を受け、華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)の英語教師となりました。
しかし、この頃から結婚か仕事かの選択を迫られた梅子は、何度となく訪れる縁談の話をきっぱり断り、1889年に再びアメリカ留学を決意。1892年、日本に帰国した梅子は再び華族女学校で教師として働きます。
1900年、世間の女子教育の関心が高まった所で、父や多くの友人に協力してもらい、女子英学塾(現:津田塾大学)を開校。
これまでの女子教育というのは、花嫁修行が中心だったため、女子英学塾の評判はたちまち世に広まり、学問としての厳しい教育は、脱落者が出るほどで、梅子は鬼教師と呼ばれていたそうです。
梅子は、身分の関係のない、女子の教育向上に力を注いできた第一人者。
これらの功績から「女子教育の先駆者」と称されています。
北里柴三郎は、病気の患者を治すことはもちろん、病気を防ぐ予防医学に大きな力を注ぎ、日本医学界をリードした人物です。
血清療法により感染症だらけだった世界から人類を救ってくれた偉大な方です。
日本医師会を作り、初代会長として務め、日本の医学界に大きな功績を残しました。
1889年、世界初の「破傷風菌純粋培養法」を発見。
1890年には「破傷風菌の抗毒体」を発見。
この発見で、世界中から注目を浴びることに。
さらに、血清中に抗体を作る血清療法(ワクチン)を開発。
まさに私たちが行っているインフルエンザやはしかなどの予防接種の原点ですね。
また同僚のドイツ人医師のベーリングと、ジフテリア(ジフテリア毒素による気道の粘膜感染症)の血清療法を、連名で論文を発表し、この論文によって、柴三郎は第1回ノーベル生理学・医学賞の候補者となりますが、実際に受賞したのは一緒に研究をしてきたベーリングだけだったのです。
ノーベル賞は逃しましたが、これまでの研究成果は、非常に高く評価され、欧米各国の研究機関や大学からスカウトされていました。
それらスカウトを全て断り、日本の医学へ貢献するために日本へ帰国しました。帰国したはいいものの、柴三郎を受け入れてくれる日本の医療機関がありませんでした。なぜかというと、柴三郎がドイツ留学中に日本で脚気という病気に関する論文が発表され、この脚気という多くの人の命を奪う病に関する柴三郎の否定的な意見が物議を醸し、文部省(政府)を知らぬ間に敵に回していたからです。
この状況に力を貸してくれたのが、教育者の福澤諭吉でした。諭吉はプライベートマネーで私立伝染病研究所を設立し、柴三郎を所長としました。
1894年に政府の命令で、ペスト(感染症)が大流行していた香港に向かい、そこでペスト菌を発見。(実際にペスト菌発見者となったのは同時期に発見していたスイス人医師イェルサン)。
日本は、柴三郎が感染症予防の必要性を政府に説明したこともあり日本でのペストの大流行を防ぎました。
研究所を辞めた後、柴三郎は自身で「私立北里研究所(現・社団法人北里研究所)」を作り研究に没頭。そして、福澤諭吉への恩返しするために、福澤の作った慶応義塾大学に医学部を開設し、慶応義塾大学の発展にも力を注ぎました。
これらの功績から「近代日本医学の父」と称されています。
という形で紹介させていただきました。
記事を書きつつも日本を築き上げてきた3名の偉人に感心するばかりです。
よく見ると、北里柴三郎は現一万円札の福沢諭吉との関係があったみたいですね。簡単に紹介した中でもこうやって偉人同士の繋がりが見えてくると面白いです。
各人物を一言ずつまとめると、2024年度上期以降、
一万円札 渋沢栄一 「日本資本主義の父」
五千円札 津田梅子 「女子教育の先駆者」
千円札 北里柴三郎「近代日本医学の父」
となります。
世界に名を馳せる素晴らしい人財を、学習塾ESTEMからも輩出していけるように全力でサポートし、私たちも日々励んでいきたいと思います。
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